●わくのない絵画 

 (田中泯・桃花村「影からの客」−ゴヤの『ロス・カプリチョス』から−をみて)


 今年で三回目の樂土舎の公演になる。泯さんがなぜこんな中途半端な袋井の田舎の、
樂土舎の土の上で演ずるのか不思議だ。さて、今回はどんなふうに観せてくれるのか?

 足下も悪く雨も降っている。しかし舞台に集中できぬほど悪い気候でもなく、寒くもなく。
わくわくしながらビニールカッパをすっぽりかぶって、どこに目をすえてよいやらきょろきょ
ろ始まりを待っていた。なぜなら青天井だし、舞台の枠がないのだ。どこからどこまでが舞
台かわからない。アクターはどこから出てくるのか。
 おもむろに、ゴヤの時代とも、現代とも思われぬ時代不明、国籍不明の姿の男らしき人
が出現し、驚きと異様さで、こちらの好奇心はしっかり捕えられてしまう。観る私たちは、
常識では考えられない、説明のつかない意識の外に引きずり込まれてしまう。経験したこ
とのない、日常とは違うことをみせられ、理解・納得できぬまま、理性を無視し進んでいく
ため、一種のカルチャー・ショックとパニックに陥る。そうなると、説明や理性を求めることを
潔くやめる。そうすると心地よく覚醒した気分でそのおどろおどろしさに美しさを感じてくる
のだ。なんと美しい汚い美だろう。失礼な言い方だが、それしか言い方が見つからない。
ライトによって雨が浮かびあがり、水の線を金色に描く。それに加え、大きな焚き火が闇
の黒と金色のかげを描く。なんと贅沢な演出か。なんと自然はにくいほど美しい映像を作
り出すのか。泯さんはこれを狙っていたのだ。枠のない大画面。そして自然現象たち。雨
、火、闇、土、風を彼は味方につけた。
 しばし、美しさにうっとり見とれていたにもかかわらず、次は大きな鉄のシーソーだ。
大きな錆びた鉄板のまん中に支柱を立てただけのあぶなっかしい、不安定なシーソーだ。
おまけに雨ですべりやすい。私だったら冗談でも乗りたくない。ギッコンバッタンなんてもの
じゃなく、ギィ〜〜〜…バタン、と地獄の扉が開くような嫌な音を感じるほどのシーソーの
上で、アクターは無邪気にバランスをとりながら淡々と演じているようにみえた。実際はど
うなのだろう。意識と肉体が離れ、人格がなくなり、そこから別の何ものかに変身していく
のか。泯さんはアクターにどんな訓練を施しているのか。人格を剥ぎ取ってしまう泯さんの
凄さを感じる。
 舞台は、不安定なシーソーによって不安を醸し出しつつも、それが大きな構成軸となっ
ていた。やっぱりこの舞台は動く絵画、枠のないキャンバス。自然の現象までも役者にし
、樂土舎の地に絵筆を握って描いていたのだ。ボックスアートがブームの中、泯さんは、
自然と一体化したスケールの大きな枠のない空間アートで、ゴヤの時代も、現代も、時空
を超え壮大な絵画を創造したのだ。ゴヤはあの世で、どんな顔をしてみているのだろう。
 ゴヤの時代を共有していた巨人たちにサド、モーツァルトがいた。考えてみるとなんと
不条理で恐ろしい時代だったことか。その時代にインスピレーションを感じ平成になぞら
えた泯さんも、彼らと同類か?

                               2002.10.3   トリイケイコ

   桃花村舞踏公演「影からの客」は2002年9月14日 樂土舎 野外特設舞台で上演されました。

<影からの客>を観て   掛 川 市        鈴木ともえ
                 創作人形作家      瀬川 明子
                 グラフィック・デザイナー 鳥井 素行     
                 焼 津 市        小石富美江